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滋賀県に関するブログ!!

滋賀県

 海洋国家である日本において、内陸側に位置する数少ない県である。面積は全国で10番目に狭く、内陸県では埼玉県に次いで狭い。領域は令制国の近江国と一致する。

面積の大半を琵琶湖と山間部が占めるせいか、ほとんどの国道が片側1車線しか整備されておらず、県内全域至る所で渋滞している。特に、大津市と京都市の境は、交通集中のため慢性的に渋滞する。

県庁所在地は大津市であるが、比叡山を挟んで京都市と隣同士に位置する為、京都市が県庁所在地だと誤認される事がある。又、気象台所在地の彦根市や、新幹線駅がありまた昔から交通の要衝であった米原市が県庁所在地だと誤認される事もある。

滋賀県は、沖縄県と並んで高い人口増加率を誇る県であり、全国でも数少ない推計人口が現在より増加する県とされている。その要因としては、宅地開発などによりここ数年他府県からの転入者が転出者より増えている事、また大阪や京都などのベッドタウンとして人口が増加している事があげられる。

中央よりやや北に位置する琵琶湖を中心に、西部の比良山地、北部の野坂山地、東部の伊吹山地、鈴鹿山脈等に囲まれ、琵琶湖南岸には近江盆地、水口丘陵が広がる。琵琶湖には安曇川、愛知川、野洲川等の河川が注ぐ。

東西交通の要地であり、短期間ではあるが近江京や紫香楽宮が平安京に先んじて置かれる等、古くから開発され日本の中央政治に関わってきた。近江京を巡って壬申の乱が起こり、東西日本の接点という位置により藤原仲麻呂の乱の舞台となった。平安京への遷都後には都から東山道(江戸時代以後は中山道)から北陸道への接点となる。

歴史

平安時代中期より佐々木氏が近江に起こった。この佐々木氏は源頼朝が東国で勃興するとこれに積極的に加わり、近江一国の守護職を得た。以降、六角氏、京極氏と分かれながら、佐々木氏一族により戦国時代に至るまで近江を支配する。南北朝期にはばさら大名で有名な佐々木導譽(高氏)が出て京極家の勢威を伸ばした。

本願寺蓮如の大布教が、始まると現大津市域は一向宗色が強くなった。このためこれを喜ばない比叡山が度々攻撃を仕掛けた。比叡山お膝元の坂本は一向宗の堅田と経済的にもライバルであったから、両者の抗争は頻繁であった。この後、蓮如は大津に近江における一向宗拠点を構えたため、大津が栄えることとなった。

戦国時代に入ると北近江に浅井氏が台頭する。形の上で京極氏を奉じた浅井氏は南近江を領する六角氏と抗争する。織田信長と結んだ浅井長政に至って六角氏を駆逐するが、後に将軍の信長包囲網に加わって信長に抵抗、1573年に滅亡する。

近江国を完全に支配した信長は、根拠地として近江平野に安土城を建設する。信長の死後は、畿内を根拠とする羽柴秀吉と、北国を根拠とする柴田勝家の係争の舞台となり、近江北端部で行われた賤ヶ岳の戦いにおける秀吉の勝利で決着が着けられた。秀吉は初めての領地が近江長浜であった関係もあり、多数の近江人を主に事務方として登用した。石田三成もその一人である。

しかしその事によって生じた近江閥と秀吉出身地の尾張閥の対立が、近江東端で行われた関ヶ原の戦いを促したとも言われる。徳川家康は徳川氏における精鋭軍を率いる井伊氏を、関ヶ原に近い彦根に入封させ、西国の抑えとした。

近世まで、交通の便から商業が発達し近江商人が有名。

廃藩置県後、1876年8月21日には嶺南(旧若狭国)を編入した為に、若狭湾に面していた時期もあった[1]。しかし、4年半後の1881年2月7日に、福井県が発足した際に、嶺南が滋賀県から分離された事で、内陸県である現在の領域となった。